芸人さんとの出会いは追っかけから
私は昔から好きになった有名人を追っかけすることが好きでした。1番最初に追っかけを始めたのは中学生の時。父の影響で野球が好きだった私はヤクルトスワローズのファンでした。
大好きな選手の追っかけをするためにホテルを突き止め、試合が終わる時間を見計らってホテルのロビーに忍び込み(失敗してばれると追い出されるので)、シャッターチャンスを狙っていました。
高校では、私の追っかけ熱は少し治っていました。クラスメイトなど現実世界の男子との恋愛に夢中になっていたかもしれません。しかし身近な男子と、有名人とでは格が違いすぎます。追っかけをしていた時の情熱や、間近で憧れの人と会える感覚はいつまでも忘れていませんでした。
当時ヤクルトの選手の追っかけをしていた時、追っかけ仲間のお姉さんが言っていた会話を思い出します。
「地方妻でもいいからなりたい」「あの子はサセ子だよ」などです。
まだ中学生だった私には詳しい意味は分かりませんでしたが、どこか淫靡な意味合いを含んでいる言葉であることは、なんとなくわかりました。
社会人になってから私の追っかけ熱が、ひょんなことからまた再燃しました。趣味という趣味がなかった私は、休みの日も家に閉じこもって DVD を観ているような社会人でした。
販売業だったため友達と休みが合わなかったこともあります。 DVD を見飽きたら、夜になってふらりと外に出て、気になったお店に1人でふらりと入って夕食をとると言うスタイルでした。
邦画のDVDを好んで観ていたのですが、たいていお笑いの DVD も一緒に借りてきていました。箸休め的な意味合いがあったのです。好き嫌い問わずいろんな芸人さんの DVD を適当に借りていました。
ある日借りてきたのは、1つの事務所に所属する芸人さんが色々出演する舞台のDVDでした。若手から有名なベテランの芸人さんまで、持ち時間10分ずつぐらいでテンポよく次から次と出てきます。
私はどちらかというとコントよりも漫才の方が好きです。そのDVDの中でも何組か、面白いなと思うコンビが登場していました。いいなと思う基準は「他の漫才も観てみたいか?」です。次のDVDを借りる材料になるように、何組かの芸人さんの名前をスマホのメモに入れておきました。
ある日職場の同僚が「たしかお笑い好きだったよね?今度いろんな芸人さんのライブがあるんだけど一緒に行かない?」と、声をかけてくれました。
私が住む町は地方のため、年に数回特別な時にしかお笑いライブはありません。その中の1つに、同じくお笑い好きの同僚が私の事を誘ってくれたのです。
お笑いライブに行くのは初めてでした。 2人とも早番のシフトにしてもらい、ワクワクしながら会場に向かいました。
会場のあちこちに大きなポスターが貼られていました。テレビでMCを務めるような芸人さんがどんと大きく載っていて、その周りに中堅どころの芸人さんや、もっと若手の無名の芸人さんの写真が載っていました。
その中の1組に、見覚えのある顔がありました。 DVD を観て面白いとチェックしていたコンビです。「生で観れる!」私のテンションは一気に上がりました。「こないだ観たネタと同じネタかな?」ドキドキしながら開演を待ちました。
ライバルのファンがたくさんいようとも
生で見るお笑いの舞台は想像以上に最高でした。気になっていた芸人さんのネタも、DVD とはまた違う物を披露してくれました。
帰りは同僚とご飯を食べて帰ろうと思っていたのですが、ふと私は昔の追っかけ熱を思い出しました。
「出待ちをしてみよう」そう思ったのです。
同僚にも一緒にしてみないか誘ってみたのですが、現実世界でちゃんと恋愛をしている彼女にとっては興味のない話だったようです。ただ結果的にそのことが、私を思いもよらない方向に導いてくれました。
昔の経験から、なんとなく関係者出入り口を探り当てられるものです。似たような目的で集まっているファンもいるので、お互い牽制し合いながら、数10分間たむろしていました。
タクシーが何台か停まりはじめ、ほどなくして先ほど舞台で見たばかりの芸人さん達が次々と出てきました。
MCを務めてるような超有名な芸人さんは、さすがにもうVIP対応で行ってしまった後だったのかもしれません。若手や中堅どころの芸人さん達が数分おきに出てきては、タクシーの中に乗り込んで行きます。
隙を見てはサインを求めたり、手紙を渡したりしているファンたち。私は少し離れた所でその様子を眺めていました。
私の中でターゲットは絞っていました。
今日1番気になって観ていたコンビの芸人さんのうちの1人です。ネットの情報で、未婚であることは確認済みです。何があるわけではないですが、 既婚者だけはやめようというポリシーがありました。
そしてその時が来ました。
ファンの一部からキャーという黄色い声が上がりました。私のお目当ての芸人さんが出てきたのです。優しく求めるファンにサインをしながら、ゆっくりとタクシーの方に向かって行きます。
すかさずタクシーの進行方向にある信号を確かめました。もうすぐ赤になろうとしています。 咄嗟によんだ私はその場を離れて、赤になったばかりの交差点の付近でタクシーを待ちました。
案の定タクシーは私の近くで信号待ちのため停車しました。ちょうど後部座席の手前側にお目当ての芸人さんが座っています。
深くお辞儀をして合図をし、窓を開けてくれた彼に握っていた紙を差し出しました。DVD の漫才を見て好きになったこと、今日の舞台でも1番面白かったことなどの感想の後に、小さく自分の携帯電話のアドレスを書いた紙です。
これで私のミッションを達成です。どのような結果が出ようとあとは時の運です。むしろ9割以上、失敗に終わることの方が当たり前です。大きな期待はせずに、いつも行っている飲み屋さんで遅い夕食をとっている時に奇跡のメールが受信されたのです。
ネットに引き裂かれる芸人との恋愛
「今から会える?」
とても短くて簡潔な、憧れの芸人さんからのメールでした。
急いで返信をし、いくつかのやり取りの後、指定された場所に向かいました。
地元の私でも知らないような場所にひっそりとあるバーのカウンターで、彼は1人で飲んでいました。相方さんは後輩を引き連れて、美味しい食べ物を求めて繁華街に繰り出したそうです。
彼はあまり賑やかな場所は好まず、いつも先に抜け出してはホテルの部屋で缶ビールを飲むことが 楽しみだったそうです。
「どうして呼んでくれたんですか?」たいした美人でもない私は、1番聞きたかった質問をぶつけました。「連絡先が書いてあったから」またしても単純明快な、彼からの返答でした。
そこからの出来事は正直あまり詳細には覚えていません。あまりにも夢のような展開に、最後の最後まで心が浮ついていました。 いつも以上に飲んだお酒のせいもあるかもしれません。
どんなことがあっても後悔はしないと、それだけは心に決めていました。それはつまり、たった1回でもいいということです。
彼は最後まで優しくて紳士的な人でした。 私の仕事の話も興味深そうに聴いてくれて、 自分の話になると相方さんに対する愛情や漫才にかける情熱などを熱く語ってくれました。
「きっとこの人はもっともっと売れる」すごく上から目線ですが、そのように強く感じました。
最後まで彼女がいるかどうかは尋ねませんでした。まだそこまで有名ではなくても、こんな地方都市にもたくさんのファンを抱えている彼です。モテない理由がありません。それを聞いたところで自分には何のメリットもないことはわかっています。
2日連続公演だったため翌日の夜も彼と一緒に過ごしました。その日は私の翌日の仕事が早かったため、彼が泊まるホテルを早々に後にしました。
その時ロビーに、前日追っかけの中にいた熱心な彼のファンを見かけたような気がしました。向こうもこちらを見ているような感じがしましたが、気のせいだとも思いやり過ごしました。
それから数日間の私は、夢見心地な日々を過ごしました。このことは一緒に行った同僚にはもちろん、誰にも伝えないでいました。
彼とはたまにメールのやり取りをしていました。 私が彼の仕事を労い、それに対して短い返信を彼からしてくる、という感じです。「また会いたいな」やり取りの中で、1度だけそう打ってくれた彼のメールはお守りになりました。
実際に「また」は来ることがありませんでした。
それはネット上の掲示板2チャンネルがきっかけでした。暇な時に、お笑い関係の2チャンネルをたまに覗いていた私。当時開設されたばかりの、彼と相方さんの2チャンネルのページを覗いていました。
そこには何と、私と思われる記載がされていたのです。
「あの新入りのババア」「ババアのくせにカキ」そのようなことが書かれていました。
投稿されていた日時や想定される場所、表現されている外見などから、ほぼほぼ私で間違いないと思います。一気に血の気が引きました。
彼はよくエゴサーチをすると言っていたので、おそらくこの2チャンネルのこともチェックしているでしょう。私の儚い恋愛は、あっけなく、しかし想定通りに終わりを迎えました。
「もっと慎んだ行動すれば良かったのか?」「あのホテルでの出来事が失敗だったのか?」色々考えましたが、そもそも何かあっただけでもすごいことなのです。
私は井の中の蛙に戻っただけなのです。ほんの一瞬だけでも夢を見させてもらったことに、今は感謝しています。そしてもちろん彼からのメールは全て消去してあります。
29歳 販売業の